『すずめの戸締まり』を初めて観た。奇しくも物語の時間軸と同じ2023年9月25日であった。
引用:新海作品PRスタッフ |
映画は落ち着いた時に見る。大変な時期に見ると、せっかく面白い映画でも見返した時に当時の思い出が蘇ってきてしまって集中できないから。すずめの戸締まりが劇場公開した時、私はちょっと忙しかった。新海誠の映画は好きだ。だから仕事や勉強といった実利的なしょうもない思い出と一緒のページには綴じたくないのだ。それで観るのが一足遅くなってしまった。
映画の感想というより、今日は新海誠のすごいところを。
新海誠は恐ろしい。彼は言いたいことを明確かつ正確に伝えてくるのに、それでいて説教臭さが全く無い。臭いセリフも初期の作品と比べると驚くほど減った気がする。
一方、私は宮崎駿がちょっと苦手だ。彼の航空機へ抱くロマンとその描き方は傑出しているけれど、ちょっと説教臭い。もちろんそれは大事なことで、聞かなくてはならないことだ。でも説教臭い。僕は校長先生が卒業式で話した内容をほとんど覚えていない。校長先生は正しく大切なことを言ったはずだ。しかし、正しいことというのは大抵の場合面白くなく、大切なものというのはその言葉だけ聞いても分からないものなのだ。
かのショーペンハウアーは、本の知識を自分のものにするためには、自分自身で原著を読むほかないと言った。要約や解説だけ聞いても仕方がないのだ。今日ファスト教養と呼ばれるものに対して行われた彼の批判は、この説教臭さの問題にも示唆を与えてくれる。
つまり、校長先生の話は要約や解説である。校長先生は50年近くの人生で数え切れないほどの苦難を乗り越えてその場にいる。だから、その話がどれだけ大切なのか知っている。しかし、聞いている生徒はそうではない。要約だけ聞いても、だからなに?という反応になってしまうのだ。生徒はまだ原著を十分に読んでいない。人生という原著を。原著を読まずして解説や要約書だけを読んでも何も染み込まないのだ。
新海誠はこのことをよく理解している。彼は10秒の説教臭いセリフ(=要約)を聞かせる代わりに、2時間の映画を通して原著を読んでもらうことにした。
それが彼の考えだした答えだ。だから説教臭さが無いのだ。
しかし、彼はそのような優れた脚本センスがありながら、映像化に関しても妥協を許さない。というかむしろこっちが本業でもある。既存のどのアニメ作品をも凌駕する洗練されたものを出してくる。脚本と映像の両方が天才的である。そんな離れ業ができるのは彼を置いてはクリストファー・ノーランくらいしか思いつかない(もっぱらノーランは実写映画だが)。
ちょうど今、絵コンテ集を購入して読んでいるところだ。これが991ページと空前の分厚さになっている。まさに鈍器。読み終わったら玄関に置いて不審者対策に活用しようと思う。あとブルーレイ初回生産限定版も購入したのでそろそろ届くだろう。これに付属するビデオコンテが特に気になる。いかにして頭の中のイメージを実際の世界へ召喚するのか。そのヒントがこれら制作プロセスに詰まっている。
ということで、今回は観たよ!という話だった。
映画の感想や考察はまたの機会に。絵、ビデオコンテを観たあとの話もまた今度やろうと思う。
それではまた次回!