2023年10月29日日曜日

数学をもう一度

 現代には知っておかないと虚無感を味わうことになる言語が2つある。それが英語と数学だ。

これらを知らないと一次情報にアクセスできない。自分の目で真相を確かめられないのだ。

英語が読めないなら誰かが翻訳した記事を読むしか無い。当然、翻訳されていない情報にはアクセスできない。インターネットをやると、日本語に訳されている情報がこの世界のほんの一部にすぎないということを知る。つまり、英語が出来ないと世の中の多くの事実を知らないまま生きることになってしまうのだ。流れてくる外国人のツイートや英語のDiscordコミュニティのやり取り・・・すぐそこにあるのに、手が届かない。そういう無力感に苛まれることになる。

幸いなことに、最近はコンピュータを用いた自動翻訳の技術が進んだことで、この障壁も薄れつつある。それに僕は英語が平均点以下ではあるが、読むくらいなら少しはできる(ただしリスニングはカス)。


もっと深刻な問題は、数学である。

英語はまだ自然言語なので、具体的な単語の意味や文法が分からなくても、だいたいどんなものなのかイメージはできる。日本語さえ分かっていれば、それの異国バージョンなのだなと理解できる。しかし数学はそうじゃない。

(厳密な議論はさておき、)数学は何かを表すものという意味で言語と言えるが、それは私達が普段話す言葉とは余りにもかけ離れている。

数学には数学独自の考え方がある。例えば、「ほとんど」という場合、自然言語ならまあ100個あるうちの95個くらい?という感じの意味でなんとなく使う。一方、数学では厳密に「測度0の集合を除いて」という意味で使われる。

多少の曖昧さも許さないことが我々の理解を妨げる。本を読む時、読めない漢字があっても前後の文脈や漢字のへん、つくりなどからなんとなく意味を察して先に進むことができる。しかし数学はそのように曖昧なまま先に進むことが出来ない。ある部分で一つ計算を間違えると、その先の結果が全部変わってしまう。数学に限らず、ロケットの打ち上げや軍隊の指揮など、厳密に順序が定められたもののデメリットがここにある。

ともかく、僕が数学が苦手なのは、まず何の意味があるのか分からないこと。計算はできるので、式と変数さえ教えてくれれば答えは出せるが、だから何なのかという感覚になってしまって、どうも取り組めない。スマホや電車など色々なモノを作るのに役立つというのも頭では分かっているつもりだが、役立つから何なのか?と思ってしまう。数学の重要性を必死に説明してくれた学校の先生たちには申し訳ないが、役立つかどうかは僕の中ではあまり重要なことじゃなかったのだ。

もう一つはスポーティーであるということ。僕はもともとスポーツが得意ではない。学校の数学は競技性が高い。素早く問題を解いて高い点数を獲得するために学ぶ。もちろん本来の目的は点数ではないが、毎日課題に追われる視野の狭い中高生達の眼前の目標はやはり定期試験となる。そのような競技性の高いカリキュラムが僕の肌にはあまり合わなかったらしい。数学の教科書はルールの定められた特定の競技で勝つ方法が色々書かれてあるだけのように見えてしまい読む気にならなかった。一方で、理科や社会科や国語の教科書はそれを読んで新たな知識を手に入れたり、物思いにふけたりできて楽しかったという覚えがある。



だが、そんな呑気なことも言ってられなくなってしまった。

人は年を重ねるごとに新しいものを取り入れる能力が低下すると一般的に言われている。数学を理解したければ、今が最後のチャンスなのかもしれない。

僕が数学が分からなくなったのは中3~高1くらいなので、その辺りからやり直す必要がある。道は長いが、どうせやるなら早いほうがいい。



2023年10月4日水曜日

すずめの戸締まりおかえり上映!あと都心をぶらついてきた話

映画『すずめの戸締まり』のおかえり上映に行ってきた。あとそれ関連で都心をぶらついてきたのでここに記す。


10/2

映画『沈黙の艦隊』を観るついでに、久しぶりに都心に出た。すずめの戸締まりに登場する御茶ノ水にも行ってきたよ!

例の場所は映画以前に有名な写真スポットでもあるので人が大勢集まっていた。外国人の観光客っぽい人もいて、SUZUMEという単語が聞こえてきたのでたぶんそれ関連で来たんだろうか。僕も写真を撮ってきた。

東京の後ろ戸はこの奥らしい。

すずめが飛び降りた(飛び乗った)のは車道を挟んで反対側の欄干。左の工事中の建物が御茶ノ水駅。待ち合わせがあったので写真も撮らずに急いで通り過ぎてしまったが、すずめが登った階段もあったよ!

歩いて10分ちょいで秋葉原なので、友人と会ってプラモを見に行った。ピットロードのアドミラル・クズネツォフがほしいよねっていう話を延々してた。僕の友人はソ連の艦艇を番号で呼んだりフルネームで呼んだりしないタイプの人間なので気が楽である。その後は上野で沈黙の艦隊を見た。これについてはまたそのうち書きたい。


10/3
池袋ですずめの戸締まりおかえり上映。平日の昼間なのにちゃんと映画館が混んでる。都心はすごい。それとも院試が済んで一息ついてる者たちだろうか。写し鏡である。

実は劇場ですずめの戸締まりを観るのはこれが初めて。以前書いた通り、ネット配信で2023年9月25日に観たのが最初。それ以降はネット配信とかブルーレイとかで観て、これで7回目になるけど、やっぱりこのスクリーンを前にすると新鮮な気分になれる。

劇場でクリアファイルをもらったよ!

ややネタバレになるが、おかえり上映は通常の上映と比べ、最後のシーンのセリフが異なる(もっぱら通常の上映に行っていないので確認はしていないが)。

セリフと言えば、映画館で観ると家のヘッドホンとは少し音が違うので、一つ一つのセリフが新鮮に聞こえる。ちゃんと頭に入ってくる。つまり「家で同じ映画を何回も観るならば、ヘッドホンも複数種類持っておくといい」という結論になるだろうか。産業界の考えることは無慈悲である。

映画の後はアニメイト!すずめの戸締まりの美術画集を見に行きました。お金無かったので買わなかったけど・・・いつか欲しいな。

池袋の恐ろしいところは、その辺歩いてる人がみんな、いわゆる地雷系みたいな服を着てるところ。僕も東京に住んでるけど、それでもこの雰囲気は中々慣れない。

前に、傑出したゲームデザイナーであるノトさんがこんな話をしていたけど、それは東京の中でも感じる。都心の一部地域は僕の感覚よりもずいぶん先を行っているのかもしれない。

そんなわけで今回は都心をぶらぶらした話でした。東京都心はコンパクトな街で、基本的には電車と徒歩だけでどこへでも行くことができる。ただそれだけ狭いので、人が密集していてまだちょっと怖い。来年からは大学院が都心になるので、僕もこの雰囲気に少しずつ慣れていきたいところだ。


2023年10月2日月曜日

『すずめの戸締まり』よすぎる!あと因果の哲学について

 すずめの戸締まり、良すぎる。

今はこの映画が人生で一番好きだと言えるくらいに心を揺さぶられた。

しかし時間とは恐ろしい。いつか、どうしてあの時あんなに感動していたんだろうと冷めた目で振り返る日が来る。人は毎日多くのことを忘れるものだ。今日のこの気持ちもいつか忘れてしまうのだろう。だが、せめてここに書き残すことで、僕は記憶の風化に対抗したい。

今回は『すずめの戸締まり』を観ての感想と若干の考察である。なお当然にようにネタバレしていくのでその点、留意されたい。また、この投稿で使用する画像、セリフ等には文化庁の引用の基準に従って、映画『すずめの戸締まり』本編から引用、またそれを編集したものが含まれている。

真面目な考察については、僕よりも遥かに優れた記事が山程インターネット上にあるのでそちらを見ていただきたい。代わりに僕はここで思う存分、妄想を書き連ねることにしたい。『読んでいない本について堂々と語る方法』という本で「内なる書物」という概念が出てくるが、それ風に言えば「内なる映画」の話をするということだろう。



物語の時間軸を生きる

物語は2023年9月25日~29日にかけて繰り広げられる。これについては新海誠監督のツイッター(X)を参照 

https://twitter.com/shinkaimakoto/status/1707706806833971325

全くの偶然だけど、僕はそれと同じ日にPCで映画を視聴することになった。今この瞬間、どこか知らない場所でこれが起こっていたのかと。そんな気分にさせてくれる。僕の時間の哲学では、現在は1度しか無い。2023年9月29日が再びやってくることはない。過ぎ去った時間を取り返すことはできないのだ。一度しか無いその瞬間に同じ時を共有する物語を観る。そんな贅沢な体験はビル・ゲイツだって買うことができないだろう。またと無い貴重な時間を過ごせたことを嬉しく思う。

中秋の名月。2023年9月29日 自宅から撮影



常世の星空、綺麗すぎんか

夜空を見上げ星を眺めることを、僕らはいつからかやめてしまった。何千光年もの彼方、核融合反応で生じたエネルギーが人の想像の及ばないほどの遥かなる時を越えてこの地球に届き、それを肌で感じる。それは人工の街明かりなんかよりもずっと素晴らしい体験のはずだ。それを思い出さしてくれただけで、どんな夜景を観るよりも価値があると僕は思う。



椅子の行方を追跡

映画冒頭、すずめは幼い頃に草原でお母さんと思われる人物と会う夢をみる。しかし、その人物は実は未来から来た自分であったことが最後に判明する。

劇中の説明によれば、常世とは全ての時間が同時に存在する場所なんだとか。なので、すずめは過去の自分と出会うことができたというわけだ。

常世ですずめは幼い頃の自分と出会い、椅子を渡す。幼いすずめは椅子を持って現し世に帰るが、その椅子は未来にすずめの部屋で草太が椅子に変えられて要石になることによって再び常世に戻ってくる。循環である。

なんだインターステラーだったのか・・・と雑に別作品を挙げて例えるのは失礼に当たるが、実際のところ構造は似ている。ワームホールを作った彼らが実は未来の人類だった的なやつ。

SFファンなら知っての通り、これをやると因果のループと呼ばれる一種のタイムパラドックスが生じる。すずめの戸締まりでは、常世が実質的にタイムマシンとして機能しているのだ。

いったい椅子はどこから来て、どこへ行ったのだろうか。時系列がちょっとだけ複雑なので図で追ってみることにした。緑の線がすずめ、青が椅子の行方だ。左上の椅子が完成した時点から追跡を始める。

図中の画像は映画『すずめの戸締まり』本編より引用

分からないのは、要石を戻してミミズが倒れたあとの描写。すずめは草原に横たわる椅子を発見する。しかし、この椅子はどこから来た椅子なのだろうか?

そこで、2つの仮説シナリオを考えてみることにした。
図中に青文字で[A]や[B]とあるが、これが椅子の行方に関する未知の2つのシナリオを表す。それぞれの青点線が語られていない椅子の経路だ。

[A]シナリオでは、3月11日の東日本大震災で紛失した椅子は常世へ行き、未来の時点でミミズを倒した後の高校生のすずめによって発見される。そして子供のすずめに返される。草太が入っていたほうの椅子は草太が復活するのと同時に消滅する。ここで消しとかないと椅子が2つに増えてしまう。
椅子自体はループしていないが、高校生のすずめが常世で椅子を発見するためには草太が既に椅子にされていないといけない(そうじゃなかったらそもそも常世には来ない)。しかし、それをするためには子供のすずめから見て未来の時点、つまり高校生のすずめの部屋に予め椅子がなければならないが、その椅子の起源は?と考えるとまた子供のすずめに戻ってしまうため、タイムパラドックスの問題が依然として残る。

[B]シナリオでは、3月11日の東日本大震災で紛失した椅子はそのまま消滅(ないし行方不明)になる。そして未来の時点で、草太が人間の姿に復活した際に分離した椅子がその辺に転がり落ちて草原に横たわる。それを高校生のすずめが発見して子供のすずめに渡す。これなら椅子は増殖しないが、純粋にループとなってしまうので前述のタイムパラドックスが生じる。


なるほどわからん。

厄介オタクの端くれとしては、椅子が消滅する(=質量が保存されてない)ということはエネルギーの形でどこかへ流れ出たのか?などと言いたくなってしまうが、流石に夢がなさすぎるのでやめておく。



全ての時間が同時に存在する場所・・・

複雑な時間のトリックは西暦2023年を生きる僕にはまだ早すぎる。時間と言えば、僕は空間のことを考える。時間と空間は不可分である。空間が無ければ時間はなく、時間が無ければ空間も成し得ない。例えば、宇宙の全ての物質が無限に小さい一点に重なって存在するとしたら、それらは無限に短い時間の間で無限回の相互作用をする。しかし実際には物質は空間のあちこちに散らばっており、その空間の中は光速を超える速度では移動できないので、相互作用にはタイムラグ(と表現すると循環参照だが)が発生する。このタイムラグこそが時間であり、因果律の土台である。当たり前だけど、原因と結果は「原因が前で、結果が後」だ。仮にこの2つが同時に起こってしまったら前後の区別ができなくなってしまう。因果が壊れてしまうのだ。だからこのルールは物理学の根幹であり変更できないものだと考えられている。専門用語では局所性と言ったりもする。

僕の知る時間とはそんなものである。

なので全ての時間が同時に存在するということは僕にはなかなか想像できない。

常世に空間がなければ可能だけど空間はありそうだし、だとすると局所性が破られるということだろうか?わからん。



決定論を示唆するセリフ

もう少し辺りを探してみよう。劇中には因果律あるいは決定論的とも言えるセリフがいくつか登場する。例えば幼い頃のすずめに語りかけるシーン。


引用元:映画『すずめの戸締まり』

「あなたは光のなかで大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと決まっていることなの。」

 

背景の星空が動く演出が最高の感動的なシーンであるが、よく聞いてみると決定論的世界観を思わせるセリフだ。

ここで決定論をおさらいしておこう。

知っての通り、あらゆる物事には原因があり、結果がある。これが因果律。そしてこの世界の全ては因果が集まって出来ているというのが決定論。未来はそれに先行する過去の出来事によって決定される。物理の授業だ。ある高さにボールを持ち上げると、それを実際に落とさなくても計算によって落下スピードや落下時間、運動エネルギーの大きさを事前に知ることができる。つまり、未来に何が起こるかは過去の状態を調べれば分かるのだ。

ちなみに有名なラプラスの悪魔もこの決定論の話で出てくる思考実験。

決定論は(古典)物理学の中核を成すアイデアである。もっぱら、最近の量子物理学では決定論を否定する立場も強く、この世界が実際のところどうなっているのかについては未だ定かではない。

ともかく、未来は過去によって既に決まっているというのが決定論の考え方だ。


これを踏まえてもう一度セリフを見てみると、やっぱり決定論っぽさがある。またラストシーンではこんなセリフもあった。

引用元:映画『すずめの戸締まり』

「私、忘れてた。大事なものはずっと前に、もう全部もらってたんだ。」


これも考えすぎかもしれないが、ちょっと決定論っぽい。僕達はつい、より良い未来をどうにかして実現しようと必死にもがき苦しむけど、運命はずっと前に既に決まっているのかもしれない。そこまでハードな決定論でなくても「人生のヒントは過去にある」とか、「未来は変えられないから今を生きよう」とかその程度の意味を含んでいる可能性は十分にありうる。ちょっとスピリチュアルで危なっかしい香りもするけど。


決定論はメッセージだ。正しいとか間違っているとか、そういう主張をしたいわけじゃない。決定論というものの見方は人生を豊かにするために役立てられるかもしれないよねということだ。実際、高校生のすずめは幼い自分に対して、決定論的な慰め「必ずそうなるの。」と言って勇気を与える。人が抗うことのできない決定論の無慈悲な厳格さが、この場合はむしろ未来が保証されている、「未来なんて怖くない」という意味になり、心の支えになっているのだ(ただし、この場合は未来は過去によって決まるというのではなく、未来は未来によって決まっていると言っているわけだが)。

量子のレベルで世界がどうなっているのかについては議論の余地があるが、我々が普段生活する範囲では世界は十分決定論的に振る舞う(いや実は初期値鋭敏性の問題があるから怪しいけど)。なにはともあれ、決定論的な価値観をもつことは決して悪いことじゃない。それを教えてくれるだけで十分だ。



草太は非決定論的な立場なの?

「気まぐれは神の本質だからな。」劇中で草太が言ったセリフだ。アインシュタインの有名な「神はサイコロを振らない」の逆で、草太はサイコロを振るのが神なのだと言っているわけだ。

決定論では因果を一段ずつ後退させていくと最終的に宇宙の始まりの瞬間まで遡ることになる。決定論において神が関与するのはこの最初の1度だけ。これはアリストテレスが言うところの第一原因、不動の動者というやつだ。よく聞く理神論もだいたい同じことを言っている。

一方、非決定論では神はいつでもサイコロを振り、ランダムな現象を起こすことができる。でもそんなことを許せば、自然の中から共通点を見つけて法則化する物理学という営みが根底から揺らぐ。だからアインシュタインは先のような発言をしたのだろうと思う。

改めて、草太が言った「気まぐれは神の本質」というセリフは神はサイコロを振るんだということを意味すると考えられる。つまり、彼は非決定論的な立場に寄っているということになる。決定論的なセリフを言ったすずめとは対照的である。



常世ってなんなの?

決定論をあえて都合のいいように極端に解釈すれば「過去だろうが、現在だろが、未来だろうが、それらは物事を観察するタイミングにすぎず、本質的には同じものである。」という主張が言えなくもない。

驚くことに、これは常世の「全ての時間が同時に存在する場所」という説明にちょっと似ている。

違いは、物事を一つずつしか観察できないのか、一度に全てを観察できるのかということだ。

現し世では現在は一つだけだけど、常世では現在は実際に過去でもあり、実際に未来でもある。現し世の決定論では情報として未来や過去を知ることができるが、常世では実在として未来や過去が同じ時間にある。ところで、情報っていったい何なの?という物理学の頭の痛い話が始まってしまいそうなのでこれはやめておこう。



続く

今回はなんか科学哲学的な話になっちゃった。意識してるのかは分からないけど、新海誠の映画は哲学の趣きがあって良い。本当は演出のこととか、登場人物のこととか、まだまだ色々書きたいんですけど、長すぎるのも良くないので今日はこの辺で。

それではまた次回!