現代には知っておかないと虚無感を味わうことになる言語が2つある。それが英語と数学だ。
これらを知らないと一次情報にアクセスできない。自分の目で真相を確かめられないのだ。
英語が読めないなら誰かが翻訳した記事を読むしか無い。当然、翻訳されていない情報にはアクセスできない。インターネットをやると、日本語に訳されている情報がこの世界のほんの一部にすぎないということを知る。つまり、英語が出来ないと世の中の多くの事実を知らないまま生きることになってしまうのだ。流れてくる外国人のツイートや英語のDiscordコミュニティのやり取り・・・すぐそこにあるのに、手が届かない。そういう無力感に苛まれることになる。
幸いなことに、最近はコンピュータを用いた自動翻訳の技術が進んだことで、この障壁も薄れつつある。それに僕は英語が平均点以下ではあるが、読むくらいなら少しはできる(ただしリスニングはカス)。
もっと深刻な問題は、数学である。
英語はまだ自然言語なので、具体的な単語の意味や文法が分からなくても、だいたいどんなものなのかイメージはできる。日本語さえ分かっていれば、それの異国バージョンなのだなと理解できる。しかし数学はそうじゃない。
(厳密な議論はさておき、)数学は何かを表すものという意味で言語と言えるが、それは私達が普段話す言葉とは余りにもかけ離れている。
数学には数学独自の考え方がある。例えば、「ほとんど」という場合、自然言語ならまあ100個あるうちの95個くらい?という感じの意味でなんとなく使う。一方、数学では厳密に「測度0の集合を除いて」という意味で使われる。
多少の曖昧さも許さないことが我々の理解を妨げる。本を読む時、読めない漢字があっても前後の文脈や漢字のへん、つくりなどからなんとなく意味を察して先に進むことができる。しかし数学はそのように曖昧なまま先に進むことが出来ない。ある部分で一つ計算を間違えると、その先の結果が全部変わってしまう。数学に限らず、ロケットの打ち上げや軍隊の指揮など、厳密に順序が定められたもののデメリットがここにある。
ともかく、僕が数学が苦手なのは、まず何の意味があるのか分からないこと。計算はできるので、式と変数さえ教えてくれれば答えは出せるが、だから何なのかという感覚になってしまって、どうも取り組めない。スマホや電車など色々なモノを作るのに役立つというのも頭では分かっているつもりだが、役立つから何なのか?と思ってしまう。数学の重要性を必死に説明してくれた学校の先生たちには申し訳ないが、役立つかどうかは僕の中ではあまり重要なことじゃなかったのだ。
もう一つはスポーティーであるということ。僕はもともとスポーツが得意ではない。学校の数学は競技性が高い。素早く問題を解いて高い点数を獲得するために学ぶ。もちろん本来の目的は点数ではないが、毎日課題に追われる視野の狭い中高生達の眼前の目標はやはり定期試験となる。そのような競技性の高いカリキュラムが僕の肌にはあまり合わなかったらしい。数学の教科書はルールの定められた特定の競技で勝つ方法が色々書かれてあるだけのように見えてしまい読む気にならなかった。一方で、理科や社会科や国語の教科書はそれを読んで新たな知識を手に入れたり、物思いにふけたりできて楽しかったという覚えがある。
だが、そんな呑気なことも言ってられなくなってしまった。
人は年を重ねるごとに新しいものを取り入れる能力が低下すると一般的に言われている。数学を理解したければ、今が最後のチャンスなのかもしれない。
僕が数学が分からなくなったのは中3~高1くらいなので、その辺りからやり直す必要がある。道は長いが、どうせやるなら早いほうがいい。