2025年4月4日金曜日

やつらは作るだけだ。消費はしない。AI時代の創作論

 生成AIと創作の話を聞いていて少し思ったことがある。人間のクリエイターは作るだけでなく、消費もする。一方、AIは消費をしない。作るだけだ。この違いはたぶん重要で、「AIで作れる時代になぜわざわざ自分で作るのか」という問いに示唆を与えてくれる。


僕の厄介な友人であるChatGPT氏に面白い小説を書いてくれと頼んだところで、彼自身は小説を読まない。インターネット上の膨大なデータから、面白い小説と思われるものを確率的に書くだけだ(※厳密なメカニズムは置いといて)。

一方、人間のクリエイターは消費者でもあるので、自分自身も楽しみたいという気持ちがある。なのでいつもとは違うふうに書いてみたり、突飛なアイデアを試してみたり、自分で書いたものを読み返して面白くないと思ったらボツにできる。

これが人間に特有の性質だ。AIに同じレベルのものを作らせようとすると、色々指示を書かなきゃいけなくなる。結局、人間のクリエイティビティで土台を整備することになり、あまり意味がない。つまり、消費という点が我々とAIとを隔てているものの正体なのかもしれず、だとしたらクリエイターは自らの消費者性をもっと活かしていったほうがいいのではないか?というのが、僕の考えだ。


しかしこのアイデアはこれで終わりではない。「自分も消費者にならないと、面白いものは作れない」という考え自体はAIに関係なくあらゆるエンタメ制作に応用できる。

例えば、「視聴者が面白がるような動画を作る」という運営方針のYouTuberがいたとする。彼はこの方針の評価指標を再生回数で測ることにした。基本的には面白い動画ほど多く再生されるので、まあ悪くない指標だ。しかし結果的に彼のチャンネルはインパクトのあるサムネと煽りタイトルのショート動画が目立つようになる。

こういう動画は確かに再生されるが、果たして視聴者は面白いと思って見ているのだろうか?それともデジタルドラッグの一種と考えるべきなのだろうか?


僕は何でもかんでも安易にデジタルドラッグという言葉を当てはめて批判するのが好きではない。面白いと中毒的は実際には非常に曖昧な概念で、きっぱり線引できないからだ。とはいえ、FPSゲームで試合に負けて、「悔しい!もう一回やる!」っていうのと、インドネシアの農村で誰かが何かの作物を収穫する早送りの動画とか、2つの木材を加工して接合する工程を示した早送りのYouTubeショートを見ているときとではやはり多少の差はあってほしい気もする。

後者を見てるときは明らかに「やばい・・・こんなもん見てたら脳が焼かれる・・・!でも気になる・・・!」と苦しんでいる自分がいる。


なので、できればドラッグっぽくない方向の面白さを追求していきたいと僕は思っている。そこで、消費者という考えが役に立つ。

「視聴者が面白がるような動画を作る」いいだろう。しかしその「視聴者」の中には、自分も含まれていなければいけない。

これが僕の提案だ。「このサムネにすればみんなクリックするだろう」みたいな、俺は制作者でお前らは視聴者というマインドで作ると、ついついドラッグを生み出してしまう。なので、自分にとっても面白いかどうかって観点を入れてチェックする。そうすれば多少はドラッグを減らせる気がする。「視聴者」の中に自分も含める。これが健全なクリエイティブのために必要なことだと僕は思う。

作るだけになったら、それはAIと同じだ。我々は消費ができる。そこに人間がやる意味がある。


もちろん、これらのアイデアは僕が思ってるだけなので、明確な根拠があるわけじゃない。だからこれを見た人は自分のプロジェクトで実践してみたり、あるいはもっと思索を深めてみたりして、このアイデアを試し、改良し、なんなら超えて欲しいと思う。

僕らは技術革新や大量消費の時代に生きている。自分がどんなスタンスで創作をするべきか?なぜ自分がやるのか?誰のためにやるのか?そういう問いに直面して、悩んで迷って、ここが砂の地面だと知って、それでも立派なビルを建てようとして、そうやって生きていきたい。

そんなことを思った。