2023年11月25日土曜日

学ぶって何だ

 人はなぜ学ぶのか?学ぶとは一体何なのか?

そんな壮大な問いに答えられるほど僕は賢くない。

だけれど、いくつか思うことはある。今日はそれについて書いてみる。忘れないうちに。



背景

僕はWikipediaを読むのが好きだ。知識を手に入れることは、物事の考え方に様々な示唆を与えてくれる。だから、勉強は得意では無いが教科書や図鑑を読むのはそこそこ好きだった。

100万円の高級腕時計を買うよりも、古本屋で500円のブルーバックスを1冊買ってきて読んだほうが人生は豊かになる。そんな事を思いながら毎日生きている。

なので、ラーメンと推しの話だけしていれば良いなどという反知性主義には徹底的に対抗したい。そのように考える人は疲れすぎているので、今すぐに仕事をやめて昼間の公園でハトに餌やりをするなどした方がいい。

なにはともあれ、今まで僕は漠然と知識や科学技術こそが真に価値のあるものだと考えてきた。高校生のときに植松努先生の公演を聴いてその考えは確固たるものとなった。お金をためるくらいなら本を買おう。

しかし改めてよく考えてみると、そう思う根拠は一体なんだろうか。なぜ科学は宗教や創作やその他の活動よりも重要と言われているのだろうか。はたして人類は科学のちからで真なる知識にたどり着くことはできるのだろうか。そもそも知識を得るとは何なのだろうか。なぜそんなことが必要なのだろうか。うちの猫は何の問題もなく今日も毛布の上でゴロゴロしている。人間はなぜそれでは駄目なのだろうか。そんな問いを立て、立てただけで答えを出せずにここにいる。今回はそうした問いを掘って、もっと分からなくしてみたい。



現代社会での学ぶということ

なぜ学ぶのか。受験に必要だから、仕事で必要だから、何かを作るのに必要だから、将来のスキルアップのために・・・

世の中の9割の人はそのように答えるだろう。単に「真理の探求のために」と胸を張って言える勇気のある人間はそう多くはない。研究者なら話は別かもしれないが、現代の一般人にとって、知識を得ることは実利的な利益を見越してのものだ。

余談はさておき、今日、学ぶというのはかなり当たり前のことになっている。しかし、当たり前だからこそ、その理由について深く考えることがなくなってしまった。


最近これについて考えたこととして、社会による、学ぶことへの圧力というのがあるだろうという気がしている。現代社会では誰しも学ぶように仕向けられ、それが価値のあることだと信じさせられるのである。もちろん、誰かが仕組んだ陰謀というわけではない。ただ、なんとなく社会が形成される中でそのような構造が出来てしまっているということだ。

お金を儲けるためには売れるモノが必要で、売れるモノを作るには新しい技術が必要で、新しい技術には高度な数学や化学が必要で、それらはいい大学やその出身者らが所属する企業によって研究されていて、みんなそこに入るために学ぶことを余儀なくされる。これは一例で、似たような構造が分野に関わらずそこかしこに見られる。

悪いことだとは思わない。半強制的に学ばざるを得ない状況から生まれた科学技術の目覚ましい成果によって、我々は毎日スマホでゲーム実況動画を見れるし、飛行機に乗る前に神社に行って祈る必要も無くなった(僕は今でも時々行くけど)。


ほとんどの人にとって、学ぶのはお金を稼ぐのに必要なことだ。その副次的効果として生活が便利になったり安全になったり(あるいは危険になったり)する。

では学ぶことの根本的な動機は経済的な利益なのだろうか。それではなんというか、循環してしまっている。お金を稼ぐ理由は、お金を稼ぐという目的の副次的効果として生まれた便利な道具やサービスを買うため、というわけだ。鶏と卵のようでもある。現代人はそのような奇妙な関係性の中に生きている。



学習サイクルへの疲れ

学ぶことはジレンマだ。学べば学ぶほど新たな知識が手に入るが、一方で以前から持っていた知識が陳腐化したことを知らされる。そして今学んだ新しい知識も、10年後には本棚でホコリと共に忘れ去られることになる。

科学はこれの繰り返しである。アリストテレス物理学はニュートン力学に代替され、さらにそれらも今では相対性理論や量子力学によって時代遅れになってしまった。この新陳代謝は力学のような大枠のテーマでは数百年スパンとかなり長いのでまだマシだけど、より細分化された狭い分野ではもっと短い。10年経ったらもう古い、1年前でもすでに古い。そんなものばかりである。

学問領域にとどまらず、仕事でも趣味でも同様の事例は枚挙にいとまがない。流行りのデザインツールもゲームの攻略法もころころ変わる。

何が言いたいのかというと、僕はそうした学習の虚しさに時々ついて行けなくなることがあるのだ。「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」誰かの格言だが、その言葉がちょうどよく当てはまる。最先端のテクニカルな情報はすごく役に立つ代わりに、一瞬で陳腐化する。最近はなんの役にも立たなそうなWikipedia記事を読んでるときの方が気が落ち着くのは、そうした短すぎる学習サイクルへの疲れの現れなのだろうか。


「常に学び続ける」というと聞こえが良いが、本質的にそれは新しいiPhoneが発売されるたびに買い替える今日の代表的なカモと変わらない。

我々は、学ぶという不思議な営みのカモにされてはいないだろうか。

反知性主義への抵抗を掲げてここまで考えてきたが、まさかそんな反知性主義の本体みたいな問いに帰着するとは予想もしていなかった。



科学は進み続ける。自らを終わらせるために・・・

「真なる知識を手に入れることはできるか」という問いがある。この問題は絶対主義や相対主義、懐疑主義など色々な名前で呼ばれる色々な立場の人達によって盛んに議論されてきた(らしい)。

これを科学について当てはめると、意外な事実に直面する。科学の要件に反証可能性というものがある。これは、科学で結論とされているものは実際には一時的なものであり、より良い理論が発見されれば、以前の古い理論は棄却されるというものだ。

つまり、常に覆される可能性を負うというのが科学であるということなわけだ。

ここからが面白い。「真なる知識」とは、それ以上覆りようの無い最終的な結論のことだ。しかし、前述の反証可能性を科学の条件とするならば、覆る可能性が無いという状況は、科学が科学では無くなるということを意味する。それ以上の答えは無いのだから、もう反証されることもないのだ。

真なる知識とやらを手に入れた瞬間、科学という営みは終焉を迎える。

この世界についての真なる知識を得ようと科学は日夜奔走するが、その最終的な目標は科学そのものを解体することでもあるのだ。


僕は模型作りが好きでよくやっている。当然、模型を完成させることが目標である。しかし、その目標を達成するとき、模型作りという楽しい時間が終わることもまた事実である。

日常に潜んでいる物事の儚い側面が、ここにもあるのだ。



信じるってなんだろう

何事にも理由を求めて、根拠に従って行動するのは知性を養う上で重要なことだ。しかし一方で、我々の脳の記憶容量や処理能力には限界があり、どこかで理由なく信じたり、よく考えず雑に推論せざるを得なくなる。


スーパーで買った卵をバッグに入れたら、家に帰って冷蔵庫の前でバッグを開くまで、卵はちゃんとバッグの中にあるはずだ。

だけど、もしかすると、自分の記憶違いで卵をバッグに入れていないかもしれない。帰り道のどこかでスリに合って卵を取られるかもしれない。玄関の鍵を探すときに気づかずに卵を落としたかもしれない・・・

卵が無くなる可能性はいくつもあるが、それでもいちいちバッグの中身を確認せずに「まあ無くなりゃしないだろう」と信じることで、僕らは自転車の運転に集中したり、鳥のさえずりに耳を傾けたり、走り回る学校帰りの小学生をみて羨ましがったりすることに脳のリソースを割くことができるわけだ。

宗教を信じない人でも、多かれ少なかれ何かしらを信じるという行為はやっているのだ。人間の無尽蔵の知的好奇心から脳を保護するために。


科学哲学には決定不全という言葉がある。複数ある科学理論を、手元にある証拠だけでは一つに絞れないときの状況を表す用語だ。僕はこれを本来の学術的な文脈ではなく、日常生活の現象をざっくりと扱うときによく使う。

例えば、上手い絵の描き方。絵師たちは各々持論を展開し、これさえ守れば絵は上手くなると、自ら考えた「本質」を語る。しかし多くの場合、皆言っていることが違うけど、皆同じように上手い絵を描くことに成功している。ここから分かるのは、上手い絵を描くための本質は一つに定めることはできず、色々な切り口での本質があるということだ。こうした日常の問題について、「それは決定不全だよね」と僕は言う(そして、なんだこいつとキモがられる)。

こういう日常の決定不全について、さらに深く掘り下げて思索にふけることもできるが、一方で「俺はこれが本質だと思う」と信じ込むことで脳のリソースを節約することもまた立派な選択である。

結局のところ、どこにリソースを使い、どこを信仰で済ますかは、その人が何を大事だと思うかの差でしか無い。

なので、理由なく何かを信じるなんて一見愚かなことに思えるが、それは思っているほど批判できることではないのかもしれない。



まとめ

知識ってなんだろう?信仰や宗教とどのように違うのだろう?って自分なりに色々考えてみたが、やっぱり分からんというのが今の感想だ。まあそんなに簡単に分かったら人類は苦労しないので当然だが。

結論を出せなくても、思索を通じて人生を豊かにする特別な発見を得ることがある。と今は考えることにしようと思う。