2025年6月17日火曜日

ぼざろ 感想

 ぼっち・ざ・ろっく!のアニメを観た。忘れないうちに感想を書いておこうと思う。


正直なところ、これ、俺の話???って感じでかなり堪えた。米軍のPTSDケアのために見る映像みたいな感じ。行動と思考回路が別系統になっているタイプの人間にありがちな、つい脳内で色々考えて一人の世界に入ってしまうあの感じとか、とにかく深くつきささった。もしかするとTVシリーズとしてはオールタイムベストのアニメかもしれない。それくらい良かった。

この前、ザ・コンサルタント(The Accountant)という映画を見たばっかりだったので、それも相まってこういうテーマについてあれこれ考えていた。こちらも自閉症の人が主人公として出てくる。彼は会計士で、社会に少しずつ馴染もうとするが、いわゆる健常者エミュレーターみたいなのを頭の中で回して、愛想よく会話しようと頑張ってるのがとてもいい。僕らのように"コミュニケーションを後天的に覚えた人間"は、こんな感じのぎこちなさがあるんですよね。話の内容は全然違うけど、ぼざろと合わせて見るのおすすめです。(本当か???)

いつも一人でいるやつの微妙な描き分けも上手くて良かったです。「孤独を愛することができなければ、本当の自由は手に入らない。」っていうショーペンハウアーのカッコいい言葉があるように、そういう好きで一人になってるやつもいるけど、そうじゃないんだよな。べつに俺は孤独が好きなわけじゃない。できれば仲間に入りたいんだけど、それが無理だから結果的に孤独になってるんだよな・・・っていう。この辺がとてもリアルでいいです。


それと、希望を言えるなら、これを中学か高校生くらいの時に見たかったなという。そうすれば自信を持てたと思うし、変わらないといけない部分と、自分自身のアイデンティティとして変えてはいけない部分とについてもっとじっくり考えられたんじゃないかと思う。


映像の観点で言えば、久しぶりにこういうセンスが神の編集を見て羨ましくなりました。唐突なランダムモーメントが不安症のフラッシュバックの表現として良すぎる。あの感じはそのまま映像にすることは出来ないが、表現としてはとても合ってる。

あと学部生のころにマイケル・ムーアのドキュメンタリーにハマってこういう編集好きになったのを思い出しました。彼もこういうフザけた編集するじゃないですか。社会問題を扱う真剣なドキュメンタリーなんだけど、それでいて面白おかしく描く。真面目なのは大事だけど、それだけではダメなんです。映像というのは一種の「ショー」なので、面白く作る必要がある。慈善団体のホームページみたいに淡々と書くだけじゃいけない。見て面白くないと。ドキュメンタリーでもアニメでも映画でもその考えは同じ。そんなクリエイターの精神を感じることができてもう最高です。


この作品の一番いいところは、クリエイティブをやってると色んな人が色んなことを言ってくるんだけど、まあ言わせておきましょう。お前は自分らしい真っ直ぐなクリエイティブをやれ。って自信がつくところです。もちろんコミュ障は直したいです。


感動が冷めやまないうちにもう一周すると思います。ぼっちのフィギュアも買ってしまおうか


2025年4月4日金曜日

やつらは作るだけだ。消費はしない。AI時代の創作論

 生成AIと創作の話を聞いていて少し思ったことがある。人間のクリエイターは作るだけでなく、消費もする。一方、AIは消費をしない。作るだけだ。この違いはたぶん重要で、「AIで作れる時代になぜわざわざ自分で作るのか」という問いに示唆を与えてくれる。


僕の厄介な友人であるChatGPT氏に面白い小説を書いてくれと頼んだところで、彼自身は小説を読まない。インターネット上の膨大なデータから、面白い小説と思われるものを確率的に書くだけだ(※厳密なメカニズムは置いといて)。

一方、人間のクリエイターは消費者でもあるので、自分自身も楽しみたいという気持ちがある。なのでいつもとは違うふうに書いてみたり、突飛なアイデアを試してみたり、自分で書いたものを読み返して面白くないと思ったらボツにできる。

これが人間に特有の性質だ。AIに同じレベルのものを作らせようとすると、色々指示を書かなきゃいけなくなる。結局、人間のクリエイティビティで土台を整備することになり、あまり意味がない。つまり、消費という点が我々とAIとを隔てているものの正体なのかもしれず、だとしたらクリエイターは自らの消費者性をもっと活かしていったほうがいいのではないか?というのが、僕の考えだ。


しかしこのアイデアはこれで終わりではない。「自分も消費者にならないと、面白いものは作れない」という考え自体はAIに関係なくあらゆるエンタメ制作に応用できる。

例えば、「視聴者が面白がるような動画を作る」という運営方針のYouTuberがいたとする。彼はこの方針の評価指標を再生回数で測ることにした。基本的には面白い動画ほど多く再生されるので、まあ悪くない指標だ。しかし結果的に彼のチャンネルはインパクトのあるサムネと煽りタイトルのショート動画が目立つようになる。

こういう動画は確かに再生されるが、果たして視聴者は面白いと思って見ているのだろうか?それともデジタルドラッグの一種と考えるべきなのだろうか?


僕は何でもかんでも安易にデジタルドラッグという言葉を当てはめて批判するのが好きではない。面白いと中毒的は実際には非常に曖昧な概念で、きっぱり線引できないからだ。とはいえ、FPSゲームで試合に負けて、「悔しい!もう一回やる!」っていうのと、インドネシアの農村で誰かが何かの作物を収穫する早送りの動画とか、2つの木材を加工して接合する工程を示した早送りのYouTubeショートを見ているときとではやはり多少の差はあってほしい気もする。

後者を見てるときは明らかに「やばい・・・こんなもん見てたら脳が焼かれる・・・!でも気になる・・・!」と苦しんでいる自分がいる。


なので、できればドラッグっぽくない方向の面白さを追求していきたいと僕は思っている。そこで、消費者という考えが役に立つ。

「視聴者が面白がるような動画を作る」いいだろう。しかしその「視聴者」の中には、自分も含まれていなければいけない。

これが僕の提案だ。「このサムネにすればみんなクリックするだろう」みたいな、俺は制作者でお前らは視聴者というマインドで作ると、ついついドラッグを生み出してしまう。なので、自分にとっても面白いかどうかって観点を入れてチェックする。そうすれば多少はドラッグを減らせる気がする。「視聴者」の中に自分も含める。これが健全なクリエイティブのために必要なことだと僕は思う。

作るだけになったら、それはAIと同じだ。我々は消費ができる。そこに人間がやる意味がある。


もちろん、これらのアイデアは僕が思ってるだけなので、明確な根拠があるわけじゃない。だからこれを見た人は自分のプロジェクトで実践してみたり、あるいはもっと思索を深めてみたりして、このアイデアを試し、改良し、なんなら超えて欲しいと思う。

僕らは技術革新や大量消費の時代に生きている。自分がどんなスタンスで創作をするべきか?なぜ自分がやるのか?誰のためにやるのか?そういう問いに直面して、悩んで迷って、ここが砂の地面だと知って、それでも立派なビルを建てようとして、そうやって生きていきたい。

そんなことを思った。

2025年3月6日木曜日

存在すべきでないものを最適化する

各々の専門性を活かして役割を分担し、プロジェクトを分業化するのはいいことだと誰もが疑いもなく信じている。経営者は経営のことだけを考えていて、プログラマーはプログラムのことだけを考えていて、企画は企画のことだけを考えている。じゃあ一体誰が全体像を把握してるんだろうか?そう、誰もしていないのである。

その結果として、「存在すべきでないものを最適化する」という現象が発生する。


これは一種の、ブルシット・ジョブとも呼べるだろう。よくよく考えると本当は不要なはずなんだけど、誰も全体像を把握してないので、それに気づかない。だからみんな自分の仕事が無意味だということに気づかず、それを最適化しようとする。

車についてるエアコンの効きを調整するディスプレイ。運転中でもボタンのUIを瞬時に判別できるように配色や形状を工夫しようという企画。企画に頼まれて色々な案を提示するグラフィックデザイナー。タッチしたことを分かりやすくするために振動するようにしたらいいんじゃないかと機能を提案するエンジニア。現場をあれこれマイクロマネジメントするのは良くないと考えて自分の仕事に集中する経営者。誰も、「そもそもそれディスプレイにする必要無くない?物理ボタンで良くない?」って言う人がいない。

そんな感じで良くわからない仕様のまま実装され、5年後とかにチーム全員が入れ替わったくらいのタイミングで誰かが「これ必要なんですか?」って言い出して、みんな必要性を説明出来ないから無くされる。

もうやめようよ・・・

そう思うが、全体像を把握している人は本当に少ない。
人は専門性を称賛し、そうでない人を「広く浅く」と言って馬鹿にする。もちろん実際、沢山のトピックをただ覚えているだけの、広く浅い人、つまり「物知り」が沢山いるのも事実だ。本当に必要なのは覚えることではなく、物事と物事の関係性を思慮深く考え、真の構造を明らかにすることだ。でもそれができる人は少ない。僕はできるようになりたいと思っているけど、今のところ出来ていない。これはきっと果てしない道のりであり、人々から注目を浴びることのない取り組みであるが、この世界には必要なことだと思う。

存在すべきでないものを最適化しないために。意味のない事に人生を費やさないために。

2025年2月12日水曜日

映画『プレステージ』を見て創作哲学を考える

クリストファーノーランは誰もが認める最高の映画監督だが、彼の作品の中で一番はどれかというのは答えの分かれる質問だ。僕はインターステラーもTENETもインセプションもオッペンハイマーも大好きで、何度も何度もみた。でも一番自分に響いたのはプレステージだと思う。

プレステージは2人のマジシャンの対決を描く物語。映画の中でマジック対決が行われるだけでなく、映画全体も2人のマジックになっていて、我々視聴者は2時間かけてそのマジックを観させられる。最後にどちらが優れたマジシャンだったのかジャッジするのは視聴者自身。すごい映画だ。


とてつもない脚本の裏で、もう一つのテーマも流れている。劇中で技師のカッターがこんなことを言う。

「彼らはマジシャンです。ショーマンです。単純かつときに残酷な真実を派手に飾り立てて、観るものを驚かす。」

 

劇中で明かされる通り、どちらのトリックも至って単純だ。でもそれを「ちゃんと」やるためには徹底した信念と行動が必要になる。これはエンターテインメントに人生を捧げた2人の人間の物語だ。 異なる哲学を持つ2人の。

アンジャーは観客の喜ぶ顔を見るのがなにより嬉しかった。科学が発達し、世界から魔法がとかれた19世紀末。人々は物事の仕組みを知り、現実は平凡だということに気づいた。しかしそんな時代でも、マジックを見れば人は一瞬だけ世界の不思議を取り戻したような顔をする。アンジャーはそれを見るためなら何でもした。

一方、ボーデンは芸術性を愛した。完璧なマジックのためなら自分の人生さえも犠牲にする。彼にはその覚悟があった。ショーの演出ではアンジャーに劣ったが、マジック自体の腕は上だった。

彼らは互いに異なる哲学をもって競い合った。それは単にどちらのマジックが優れているかという勝負ではなく、どちらの哲学が優れているかの戦いでもあった。


観客を驚かせることが第一のアンジャーは技術的な解決策を求めてテスラに装置を作らせる。そしてマジックではなく「本物」を手に入れる。しかしその装置のせいで、最初は小鳥も殺せなかった彼は、次第に悪事に手を染めるようになり、すっかり心が荒んでしまう。

一方マジックの腕で勝負したいボーデンは双子の兄弟を一人の人間として見せるために徹底した偽装を行う。彼は完璧な瞬間移動マジックを手に入れたが、周囲の人々に双子であることを隠さなければならず、人生は虚偽にまみれ、人間関係は破綻していく。


アンジャーは技術を使う代償を払い、ボーデンは嘘をつくことの代償を払った。


これがこの物語の根底にあるテーマだと僕は思う。

プレステージを見て僕は、自分の創作が結局のところ何をもたらすのか。とか、自分にはどういう創作ができるのか。とかを考えるようになった。僕は徹底したショーマンにもなれないし、徹底した芸術家にもなれないかもしれない。それでも考えることには意味がある。

全てを得ることはできない。それがこの世界の理だ。何かを得るには何かを失う必要がある。自分は誰なのか?どうなりたいのか?何を得て何を失うのか?それは何のためなのか?そういうことを考えないといけない。

人生で最も重要なのは土台だ。結果ではない。少なくとも今の僕は理想主義というものをそう理解している。だから土台を大事にしたいし。土台についてずっと考え続けてる。答えのない問いを追い続けて。

現代の日常生活でそういう人間の根底にある問いについてじっくりと考える機会は毎日あるわけではない。プレステージはそういうことを考える口実にぴったりの映画だ。特に創作をする人に、おすすめです。


2025年1月6日月曜日

核兵器工場のオバちゃん達から、現代文明を見つめる

核爆弾は誰が作ってるんだろうか?秘密の研究所で働く邪悪な科学者たち?まあ、最初はそうだったかも。でも今は違う。一度発明されるとモノは実験室ではなく工場で作られるようになる。量産品として、より普通の人々の手によって。


Alex Wellersteinという人のブログ「Doomsday Machines」で、アメリカの核兵器工場で働く人々の写真を紹介する記事を見た。これがあまりにも衝撃的だったので、もう1日中そのことばかり考えていた。

最初の問いをもう一度繰り返す。核爆弾は誰が作ってるんだろうか?

僕はなんとなく、全米トップクラスの大学を出た博士号をもつ白衣姿の科学者がクリーンルームで作ってると思っていた。しかし、現実はどうも違うらしい。写真の人たちはもう痛ましいほど「普通」だ。その辺のスーパーでレジを打ってそうだし、その辺の整備工場で車を直してそうだ。

これをみて僕はもう情緒がわけわかんなくなっちゃった。心が引き裂かれ、頭の中で色んな考えがぐるんぐるんしてしまった。物理学にのめり込んで倫理観を見失ったいかにも悪そうなマッドサイエンティストなんてどこにもいない。みんな普通のオバちゃんや普通のおじさんばかり。そこには普通の人々の平凡な日常が流れていた。


パンテックス・プラントと呼ばれるその工場はテキサス州の端っこにある。これはアメリカに行ったことがない僕の勝手な想像だが、テキサス・パンハンドルはたぶんとんでもない田舎だ。少なくともGoogleMAPではそう見える。

パンテックスの求人を見てみると、高卒以上で技術系の仕事経験があれば誰でも応募できそうな感じのことが書いてある。

地元の高校を卒業して町のホームセンターで働いてたお母さんが、都会の大学に進学したいという一人息子のためにこの地域で一番給料のいいパンテックス・プラントに転職し、そこで毎日一生懸命核爆弾を組み立ててる・・・もしその時が来たら、ちゃんと動作するように・・・

なんて、あるかもしれない誰かの日常を想像するとなんか人類のことがわからなくなる。ここで作っているものは世界文明を終わらせる日のための兵器だ。でもそこで働いている人々はもっと日常的な問題と戦っている。それは息子の学費かもしれないし、家のローンかもしれない。彼らにとって核兵器を組み立てることは平凡な一日の一コマであり、他にも山ほどある色々な問題の一つに過ぎないのだ。


ブログの著者はこうも言ってる。

「核兵器はフィクション以外で想像できる最も強力な破壊の象徴ですが、一方で人間の手によって作成、維持、解体されているありふれた技術的物体でもあるのです」Alex Wellerstein

そう、それは工業製品で、スマホや消しゴムや自販機で買えるエナジードリンクと本質的にはなんら変わらない。適切な材料と方法さえあれば誰でも作ることができる。誰でも作ることができれば沢山作ることができる。人類はこうやって現代文明を手に入れた。地球を支配し、自らも支配した。僕は文明の話をするときは科学者たちよりも工場のほうを強調するようにしている。凄いものを作るよりも、それを大量に作ることが文明を文明たらしめる。


僕は鉛筆の一人称で書かれたレナード・E・リードのエッセイを思い出した。少し長いけど引用したいと思う。

「油田労働者も、化学者も、黒鉛や粘土を採掘する人も、船や列車やトラックを操縦したり作ったりする人も、私の金属片にローレット加工を施す機械を操作する人も、会社の社長も、私を欲しがってその唯一の仕事をしているわけではない。 (中略) この膨大な数の人々の中には、鉛筆を見たこともなければ鉛筆の使い方も知らない人々もいる。彼らの動機は私とは別のものだ。おそらくそれは次のようなものだろう。これらの何百万人もの人々はそれぞれ、自分のわずかなノウハウを、自分が必要としたり欲しがったりする商品やサービスと交換できることを知っている。私はその商品の中にいるかもしれないし、いないかもしれない。」Leonard E. Read

きっと、核爆弾工場で働く人だって、核爆弾が欲しくてその仕事をしているわけではない。もちろん多少は安全保障に貢献したいと思ってるだろうけど、他にも色んな理由があってそこにいる。もっと現実的な理由が。

誰もが必死に自分の人生を生きていて、自分の仕事を全うしようとしている。僕はそれはそれは大変崇高なことだと思う一方、どこかおかしさも感じている。みんな頑張ってるのに、全体として世界はこんなにもいびつで不完全だ。いったい何が人々を狂わせてしまったのだろうか。

人類の狂気と誰かの日常が入り交じる場所、それが核爆弾工場。



2025年1月4日土曜日

アイデアの壁打ちをするときはちゃんと言うようにしたい

 最近X(旧Twitter)の別アカウントを作った。アカウント名を何にするか丸一日近く悩んだので、その日の夕方Discordで友人に「なんかいい名前ない?」と聞いてしまった。言っておくがこういうムーブは大抵いいことがない。聞かれた側は困るし、聞いた僕も納得の行く返答が返ってこなくて微妙な感じに終わる。

今回も、色々時間を使って聞いたのに、結局友人の案とは全然違う名前に決めることにした。親しい友人だったらまだしも、仕事の付き合いしかない人間にこれをやられると多分嫌いになると思う。「なんだよ、あんだけ聞いてきたのに全然俺の意見使われてないじゃん」って。だからできれば自分ひとりで考えたほうがいいんだ。

利害関係者が沢山いて、コンセンサスが必要な場面ならコミュニケーションは確かに重要だ。でもそれはアカウント名みたいな僕の個人的な問題のために気安く使うべきではない。相手の貴重な時間を使ってしまう前に、まず自分で考えろ。そう思うし、僕はそうしていきたい。今回は悪い癖が出たと思って反省している。


しかし改めて考えてみると、現代人はコミュニケーションの病にかかっていると感じる。現代ではコミュニケーション能力が賛美されているが、僕からすればちょっとやり過ぎだ。その結果、アカウント名なんて自分で決めればいいものを誰かに意見してもらうなんて愚行が横行する。もはや病的ですらある。

もちろん大昔の哲学者も人間は社会的な生き物だとか言ったが、今はそれを身を以て体感することが多すぎる。あらゆることが他人との関わりを前提として組み立てられている。そういうシステムを嫌っていながらも、実際にはそこで有名になったらいいなと思っている自分もいる。ダサいけど、それが真実だ。自分に嘘はつきたくない。


でもそんな、やり過ぎなコミュニケーションだって完全に無益なわけではない。アカウント名のアイデアを相談しているうちに、「そうか僕がやりたいのは本当はこっちじゃないんだ」と気づくことだってあるかもしれない。結局これはアイデアの壁打ちというやつだ。ビジネスでよく使われる概念のイメージだが、僕らは無意識のうちに日常もでもこの壁打ちをやっているのだ。

重要なのは、予告なくアイデアの壁打ちをすると、相手は出したアイデアが何一つ使われず時間を無駄にしたように感じるという点だ。真剣に向き合って意見を出してくれた人ほど損をするという罠がある。なので、壁打ちをするときは事前にちゃんと言おう。

「ちょっと、アカウント名を何にするか悩んでいるのでアイデアの壁打ちに付き合ってもらっていいですか?今から僕が色々言うので、意見をください。あなたの意見はおそらく最終的には全く使われませんが、それでも僕にとっては意味があります。」と。


いきなりこれを言われたらちょっと怖いが、でも重要なことだ。


以前積読チャンネルというYouTubeで話してる人がこんなことを言ってた。

ズルするときは事前にちゃんと言うようにしてる。こういう理由で大変なので、こっちのやり方でやってもいいですか?って」

良いルールだと思った。それでダメと言われる場合もある。というかむしろそのほうが多い。「言わなきゃ見逃してたのに~」って聞かれた相手は思うだろう。知った上で承認したなら責任を負うことになるので断るのが無難だ。


でも僕らは理想主義に憧れている。たとえ何も得られないと知っていても、正しいと思ったことをする。そういうタイプの人間に憧れている。だからこちらの手の内を明かすし、それで損をしても理想の追求のために支払わなければならないコストだと知っている。


「アイデアの壁打ちをさせてください」なんて堂々と言ったら、たぶん変だし、自分で考えろと一蹴されるかもしれない。でも壁打ちじゃないフリをして、壁打ちをするのはよくない。やるならちゃんと事前に言っておきたい。今回はそれができなかった。


これは事実上の反省文だ。新年早々から分けがわからないが、今年もこんな感じでやっていきたいと思う。



2024年12月5日木曜日

人生で初めてソシャゲに課金した

 ソシャゲに課金するという体験を初めてしてみた。ソシャゲにハマって大金を溶かす人をたくさん見聞きしてきたし、そういう世界があるというのは知識として知っている。でも実際に課金せずに彼らの等身大の気持ちを知ることはできない。

そういう建前で自己正当化をするのが関の山だ。本当のところはアークナイツのケルシー先生が好きすぎて欲しくなってしまっただけである。2024年の10月31日のことだ。

アークナイツはタワーディフェンスというジャンルのゲームで、かっこいい女の子がたくさん出てくる。タワーディフェンス自体、僕は初めてだったけどやってるうちに面白いじゃんと感じるようになった。

もともとアニメから入ったので、最初のころはまあアニメが良かったしゲームの方でもストーリー進めてみたいな~くらいの気持ちだった。でも始めてみると以外にゲームプレイ自体も面白い。意外な展開だ。そんなわけで、ケルシー先生。


3000円くらいする。



ようこそ


アークナイツにはコーデといって見た目を変えられるキャラクターごとの追加パックみたいなのもある。それも買ってみた。


つよそう


一旦ここまでで、課金してみたという話だった。一つ分かったことがある。一度でも課金すると、経験値やアイテムが足らなくて困っているときに、「また課金すればいい」という選択肢が頭の中に浮かんでくるようになる。よくない兆候だ。

大金を溶かす人の気持ちが少し分かった気がする。もちろん僕はよくゲームで遊ぶが、ゲームを作る人間でもあるので、なるほど世の中のゲームはこうやって儲けてるのかと参考にもなった。実地調査は大事だ。楽しい気持ち、知的な興味、非情な恐ろしさ、そういう感情が自分の中でぐしゃぐしゃになっていつの間にか次の何かに繋がっていけば御の字だ。