2024年10月28日月曜日

言語は理論に感染している

科学的世界像』という本がめちゃくちゃ面白い。僕らが漠然と受け入れている「科学的なもの」が結局のところ何なのかを短い言葉で説明した本質本だ。著者は科学哲学者のファン・フラーセン


今日はこの本に出てくる「言語は理論に感染している」という一風変わったアイデアの話をしたい。


科学哲学(その中でも特に科学の根底に関わる議論を科学基礎論という)の界隈では長い間繰り広げられてきた対立がある。実在と反実在の対立だ。まずはその説明から入ろう。


実在と反実在

科学は色々な言葉を僕たちに与えてくれる。重心、運動エネルギー、電子・・・学校で理科の教育を適切に受けた僕たちは、この世界の裏側には隠された「物理法則」というのがあって、本当は世界はそういうもので出来ているんだと考えるようになる。

だけれど、重心も運動エネルギーも電子も、どれも見ることも触ることもできないものばかりだ。こういった種類の物を科学基礎論では「理論語」と呼ぶ。目に見える椅子や自動車とはちょっと違う、科学理論で用いられる独特な言葉という意味合いだ。

ここで疑問が浮かぶ。この理論語という奴らは結局何なんだろうか?

世界のノイズを取り除くと、そこには文字通り運動エネルギーというのが実在してると理解していいのだろうか?

それともただ単に、運動エネルギーというものを仮定すると色々な物事の説明がうまくいくから、そういう概念を導入しているだけで、本当はそんなものは無いと理解すべきなのだろうか。

そんな感じで、「理論語をどう解釈すべきか」という問題こそが、長年にわたって繰り広げられてきた実在と反実在の対立なのだ。

実在派の人は理論語が表すようのものが実際にあると考えるし、反実在派の人は理論語なんていうのは説明のための道具であって実際にあるわけじゃないと考える。

科学が生んだこの問題に対して、科学者たちは納得のいく答えを出すことが出来なかった。そこで哲学の問題として議論されるようになったというわけだ。第二次世界大戦ごろの話である。


理論語を観察文で置き換えろ

この問題を解決すべく、当時の人々はこう考えてみることにした。「科学理論は観察事実に基づいて作られているので、理論語を観察可能な事実だけで説明した長い文章に置き換えることができるのではないか?」と。

つまり、運動エネルギーを説明するなら、「ある質量を持った物体が運動しているときの~~~」というような観察可能な事実だけで構成された一つの長い文章に還元できるのではないかということだ。もしそれができれば、理論語とはこの長い文章を短く要約したものだと捉えることができるから、とても理解が捗る。

直感的にも分かりやすいし、素人としてはそもそも理論語ってそういう目的があるんじゃなかったの!?っていう感じもする。科学に限らず大抵の場合、専門用語というのは、それを平易な言葉で説明した長い文章に置き換えることができる。知ってる人同士で会話するには長い文だと不便だから、専門用語に置き換えてコミュニケーションコストを節約する。運動エネルギーとかもそういうもんだと思ってた。でも確かに学校では理論語の目的が何かは習った記憶が無い。これって割と近代になって提唱された考え方だったのか・・・という驚きがある。

この試みは実在と反実在の対立を解消する良いアプローチのように見えた。しかし後に様々な困難に直面することになる。


明らかになる事実

1960年代になると、グローヴァー・マクスウェルという科学哲学者がこれらのやり方について色々と問題点を指摘するようになる。彼の指摘を要約すると、「理論と観察とを区別することなんてできないんじゃないか」という感じだ。

前述の試みは、あらゆる理論語(運動エネルギーとか重心とか)を観察的な言葉へと還元することで理解しようというものだった。しかしこのアプローチには、我々の言語を理論的な部分と観察可能な部分に分割できるという前提がある。マクスウェルはこの前提がそもそも間違っているのではないかと言う。

本書の著者のファン・フラーセンはマクスウェルの指摘に大賛成しながら、自分でもそれについて書いている。

ファン・フラーセンの意見はこんな感じだ。

僕たちの言語は隅々まで理論に感染している。たとえば仮に、人間の自然言語から理論的な意味合いを含む言葉を全て洗い落とすとしよう。"VHF受信機"みたいな割と最近登場した言葉から始めて、質量、衝撃力、元素といった科学理論用語にいたるまで綺麗に除去する。すると文明的な言葉は次々と消えてゆき、我々は言語形成の前史にまで立ち返ることになる。そうなれば有用な言葉はもう何も残っていないだろう。つまり、僕たちはもはや理論語なしでは何も語れないんだ。」


ここで明らかになった事実がある。僕らは知らず知らずのうちに理論語と共に生きてきたという事実だ。考えてみれば、言葉は知識の獲得によって増えていくのだから、現代の発達した社会に生きる人類が沢山の理論語を使っているのは当然のことだ。

でも僕は実際に指摘されてみるまでこの事実に全く気づかなかった。『科学的世界像』はやっぱり言語化力がすごい。僕たちが無意識のうちにやっていることを明確な言葉で示してくれる。正直なところ哲学書の文体なので読むのが難しいんだけど、ところどころに面白い話が散りばめられているので助かる。


ちなみに観察と理論を区別できないという議論には理論負荷性という言葉も登場する。これはこれで今書いたような話と隣接していそうなんだけど、長くなるのでまたそのうち書きたい。


生活に入り込む理論

言語は隅々まで理論に感染しているとファン・フラーセンは言ったけど、じゃあ具体的にはどんなのがあるだろうかと考えてみた。そこで僕が思いついたのは「速度」だ。速度、つまりスピードというのは生活のありとあらゆる場所で何となく使われている。でもこれってよく見るとかなり理論を含んだ概念だ。

例えば、自動車の制限速度は時速〇〇kmという形で定められている。時速というのは1時間で進める距離の長さによって速度を表現するものだ。もちろんそんなことはみんな知ってる。ここで重要なのは、スピード違反で捕まるのに、実際に1時間走り続ける必要はないということだ。"時" 速って言ってるのに。いったいどういうことなのだろうか。

僕は有名なゼノンのパラドックスの一つ「飛んでいる矢は止まっている」を思い出した。動いている物体も、ある一瞬を切り取れば止まって見える。どの瞬間でも止まっているのだから、動く瞬間は無いはずだ。ならなぜ物は動くのか?というのがこのパラドックスだった。

これは時間と空間の連続性に関わる重要な示唆をもたらした。つまり我々の世界はどれだけ小さくしても滑らかなままなのか?という問題提起である。でも難しい無限論の扉を開くには今日だけじゃ足らないので一旦置いておこう。それよりも、現代でこれがどう結論付けられているのかに注目したい。

ゼノンのパラドックスは厳密にはイプシロン-デルタ論法を使って、翻って普及的には微分の考え方を使って解決するのが普通になっている。雑に言えば、ある時間にある距離だけ進むのだから、その時間をどれだけ短くしても決して進む距離が0になることは無い。ただ小さくなるだけだ。

したがって、瞬間というのは完全に0秒の時間ではなく、止まっているように見えるほど非常に短い時間という意味として捉えられる。そしてその短い時間の間にわずかな距離だけ移動するので、速度があるといえる。こう考えることで、物体は瞬間において速度を持っているという解釈が得られる。これが速度という概念にまつわる現在主流の解釈である。

ほぼ無限に短いたった一瞬を切り抜いたとしても、その物体はそれ自体で速度を持っていると解釈される。だからわざわざ1時間測る必要はないのだ。

速度という概念はこうした理論的バックグラウンドを含んでいる。速度という概念をそう理解しているからこそ、警察は走り始めてからまだ1時間も経っていない車に対してもスピード違反で切符を切ることができるし、僕らもそれにある程度納得できるわけだ。あと余談だけど、もし速度についてこれとは別の解釈をしている人がいたら法律的にはどうなるんだろうか。もし今度スピード違反で捕まったら、お巡りさんにぜひ「僕は速度という概念のもつ理論的背景についてあなたとは異なる解釈を持っています」と言ってみてほしい。ワンチャン罰金を回避できるかもしれない(できないと思います)。

ともかく、日常生活で登場するこんなに基本的な言葉ですら理論を背負っているのだと考えると、確かにファン・フラーセンのアイデアは強力だ。「速度」とか「速さ」とか「運動」という言葉を用いずにそれと同等の概念を説明するのって結構大変そう。あまり思いつかない。彼の言う通り、僕たちの言語は隅々まで理論に感染しているのかもしれない。


分かった気になっている

理論語はすごく便利だ。便利すぎて僕達はそれを理論語と認識せずに使ってしまっている。これが重大な問題だ。分かった気になっているのである。

僕が「なぜ新幹線の先端は尖っているのか」と誰かに尋ねて「空気抵抗があるからだよ」と言われたらその説明だけでも十分納得してしまうだろう。でも空気抵抗だって理論語だし、本当は難しい理論的バックグラウンドを持った概念のはずだ。それなのに僕は空気抵抗と言われたら「ああ、あれね」と理解したつもりになっているのである。よく考えてみると恐ろしい。理論語はこっそりと生活の中に忍び込んで僕達の体をゆっくりと蝕む。僕達が世界を理解する能力を。

僕は空気抵抗という便利な言葉を使うことで、流体力学の複雑な理論をなに一つ知らなくても新幹線の先端が尖っている理由について納得できるような体に改造されてしまっている。いつからそうなったのか?生まれつきなのか?わからない。でももしかすると、科学教育にヒントがあるかもしれないと思った。


科学教育での理論語

僕は割と理科がわかる方だ。でも世の中には全然理科ができない人もいる。重力とか垂直抗力とかエネルギーみたいな言葉が出てきた辺りから置いていかれる人が一定数いる。この問題にも理論語が深く関係しているのではないかと僕は思う。

学校では理論語の実在性と非実在性については教わらない。理科で挫折する人たちはそのへんで混乱しているような気がするのだ。「運動エネルギー」って言われて、それが結局何なのかもよくわからないまま計算方法を教わってテストの問題を解かされる。これが本当に闇で、すべての混乱の源だと思う。

悪いことに、運動エネルギーとはつまりこれですって言えるものが無い。なぜなら運動エネルギーは理論語で、科学哲学者が何年もやってる対立の真っ只中にあるからだ。そもそも実在と反実在の決着がついてないので教科書では教えられない。

なので、運動エネルギーというものの実態や解釈については深入りせずに計算だけ教わる。計算上はそういうものがあるよねっていうのは分かるけど、見ることも触ることもできないので腑に落ちない。ここで納得できなかった人がきっと置いていかれちゃうんじゃないかと思う。

分からなくても、そういうもんだと割り切って先に進んだ大人な(または盲目的な)人だけが"理科ができる"ようになる。こうした理科の訓練を繰り返すうちに、僕達は理論語を使いこなし、ますます世界のことを分かったつもりになっていくのかもしれない・・・。

したがって、理論語についての一般的な解釈を与えることは重要だ。運動エネルギーが結局何なのかをちゃんと学校で教えられるようにするために。そして、僕のような分かった気になっている人を救うためにも。


そんなわけで、今日は『科学的世界像』を読んでいろいろと書いてみた。もちろんこの本はもっと複雑なこともたくさん書いてある。そして、科学理論が結局なんなのかについてもファン・フラーセンなりの結論も書いてある。彼は構成主義的経験論という立場を提唱していて、それについて延々と書いている。もちろん詳細はぜひ読んで確かめてみてほしい。哲学書の文体なので難しいが、僕達の見ている世界についての様々な洞察を与えてくれるいい本なのでおすすめだ。それではまた!