すずめの戸締まり、良すぎる。
今はこの映画が人生で一番好きだと言えるくらいに心を揺さぶられた。
しかし時間とは恐ろしい。いつか、どうしてあの時あんなに感動していたんだろうと冷めた目で振り返る日が来る。人は毎日多くのことを忘れるものだ。今日のこの気持ちもいつか忘れてしまうのだろう。だが、せめてここに書き残すことで、僕は記憶の風化に対抗したい。
今回は『すずめの戸締まり』を観ての感想と若干の考察である。なお当然にようにネタバレしていくのでその点、留意されたい。また、この投稿で使用する画像、セリフ等には文化庁の引用の基準に従って、映画『すずめの戸締まり』本編から引用、またそれを編集したものが含まれている。
真面目な考察については、僕よりも遥かに優れた記事が山程インターネット上にあるのでそちらを見ていただきたい。代わりに僕はここで思う存分、妄想を書き連ねることにしたい。『読んでいない本について堂々と語る方法』という本で「内なる書物」という概念が出てくるが、それ風に言えば「内なる映画」の話をするということだろう。
物語の時間軸を生きる
物語は2023年9月25日~29日にかけて繰り広げられる。これについては新海誠監督のツイッター(X)を参照
今夜は十五夜、中秋の名月ですね。『すずめの戸締まり』のクライマックスは今夜、2023年9月29日ということにしています。満月の日にこそ「常世」に入ることが出来る、という(裏)設定があるからです。物語はこの日をゴールとして展開しています。2020年に組み立てた物語なので、ついに今夜かー!と感… pic.twitter.com/byVsBiyzER
— 新海誠 (@shinkaimakoto) September 29, 2023
https://twitter.com/shinkaimakoto/status/1707706806833971325
全くの偶然だけど、僕はそれと同じ日にPCで映画を視聴することになった。今この瞬間、どこか知らない場所でこれが起こっていたのかと。そんな気分にさせてくれる。僕の時間の哲学では、現在は1度しか無い。2023年9月29日が再びやってくることはない。過ぎ去った時間を取り返すことはできないのだ。一度しか無いその瞬間に同じ時を共有する物語を観る。そんな贅沢な体験はビル・ゲイツだって買うことができないだろう。またと無い貴重な時間を過ごせたことを嬉しく思う。
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| 中秋の名月。2023年9月29日 自宅から撮影 |
常世の星空、綺麗すぎんか
夜空を見上げ星を眺めることを、僕らはいつからかやめてしまった。何千光年もの彼方、核融合反応で生じたエネルギーが人の想像の及ばないほどの遥かなる時を越えてこの地球に届き、それを肌で感じる。それは人工の街明かりなんかよりもずっと素晴らしい体験のはずだ。それを思い出さしてくれただけで、どんな夜景を観るよりも価値があると僕は思う。
椅子の行方を追跡
映画冒頭、すずめは幼い頃に草原でお母さんと思われる人物と会う夢をみる。しかし、その人物は実は未来から来た自分であったことが最後に判明する。
劇中の説明によれば、常世とは全ての時間が同時に存在する場所なんだとか。なので、すずめは過去の自分と出会うことができたというわけだ。
常世ですずめは幼い頃の自分と出会い、椅子を渡す。幼いすずめは椅子を持って現し世に帰るが、その椅子は未来にすずめの部屋で草太が椅子に変えられて要石になることによって再び常世に戻ってくる。循環である。
なんだインターステラーだったのか・・・と雑に別作品を挙げて例えるのは失礼に当たるが、実際のところ構造は似ている。ワームホールを作った彼らが実は未来の人類だった的なやつ。
SFファンなら知っての通り、これをやると因果のループと呼ばれる一種のタイムパラドックスが生じる。すずめの戸締まりでは、常世が実質的にタイムマシンとして機能しているのだ。
いったい椅子はどこから来て、どこへ行ったのだろうか。時系列がちょっとだけ複雑なので図で追ってみることにした。緑の線がすずめ、青が椅子の行方だ。左上の椅子が完成した時点から追跡を始める。
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図中の画像は映画『すずめの戸締まり』本編より引用 |
なるほどわからん。
厄介オタクの端くれとしては、椅子が消滅する(=質量が保存されてない)ということはエネルギーの形でどこかへ流れ出たのか?などと言いたくなってしまうが、流石に夢がなさすぎるのでやめておく。
全ての時間が同時に存在する場所・・・
複雑な時間のトリックは西暦2023年を生きる僕にはまだ早すぎる。時間と言えば、僕は空間のことを考える。時間と空間は不可分である。空間が無ければ時間はなく、時間が無ければ空間も成し得ない。例えば、宇宙の全ての物質が無限に小さい一点に重なって存在するとしたら、それらは無限に短い時間の間で無限回の相互作用をする。しかし実際には物質は空間のあちこちに散らばっており、その空間の中は光速を超える速度では移動できないので、相互作用にはタイムラグ(と表現すると循環参照だが)が発生する。このタイムラグこそが時間であり、因果律の土台である。当たり前だけど、原因と結果は「原因が前で、結果が後」だ。仮にこの2つが同時に起こってしまったら前後の区別ができなくなってしまう。因果が壊れてしまうのだ。だからこのルールは物理学の根幹であり変更できないものだと考えられている。専門用語では局所性と言ったりもする。
僕の知る時間とはそんなものである。
なので全ての時間が同時に存在するということは僕にはなかなか想像できない。
常世に空間がなければ可能だけど空間はありそうだし、だとすると局所性が破られるということだろうか?わからん。
決定論を示唆するセリフ
もう少し辺りを探してみよう。劇中には因果律あるいは決定論的とも言えるセリフがいくつか登場する。例えば幼い頃のすずめに語りかけるシーン。
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| 引用元:映画『すずめの戸締まり』 |
「あなたは光のなかで大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと決まっていることなの。」
背景の星空が動く演出が最高の感動的なシーンであるが、よく聞いてみると決定論的世界観を思わせるセリフだ。
ここで決定論をおさらいしておこう。
知っての通り、あらゆる物事には原因があり、結果がある。これが因果律。そしてこの世界の全ては因果が集まって出来ているというのが決定論。未来はそれに先行する過去の出来事によって決定される。物理の授業だ。ある高さにボールを持ち上げると、それを実際に落とさなくても計算によって落下スピードや落下時間、運動エネルギーの大きさを事前に知ることができる。つまり、未来に何が起こるかは過去の状態を調べれば分かるのだ。
ちなみに有名なラプラスの悪魔もこの決定論の話で出てくる思考実験。
決定論は(古典)物理学の中核を成すアイデアである。もっぱら、最近の量子物理学では決定論を否定する立場も強く、この世界が実際のところどうなっているのかについては未だ定かではない。
ともかく、未来は過去によって既に決まっているというのが決定論の考え方だ。
これを踏まえてもう一度セリフを見てみると、やっぱり決定論っぽさがある。またラストシーンではこんなセリフもあった。
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| 引用元:映画『すずめの戸締まり』 |
「私、忘れてた。大事なものはずっと前に、もう全部もらってたんだ。」
これも考えすぎかもしれないが、ちょっと決定論っぽい。僕達はつい、より良い未来をどうにかして実現しようと必死にもがき苦しむけど、運命はずっと前に既に決まっているのかもしれない。そこまでハードな決定論でなくても「人生のヒントは過去にある」とか、「未来は変えられないから今を生きよう」とかその程度の意味を含んでいる可能性は十分にありうる。ちょっとスピリチュアルで危なっかしい香りもするけど。
決定論はメッセージだ。正しいとか間違っているとか、そういう主張をしたいわけじゃない。決定論というものの見方は人生を豊かにするために役立てられるかもしれないよねということだ。実際、高校生のすずめは幼い自分に対して、決定論的な慰め「必ずそうなるの。」と言って勇気を与える。人が抗うことのできない決定論の無慈悲な厳格さが、この場合はむしろ未来が保証されている、「未来なんて怖くない」という意味になり、心の支えになっているのだ(ただし、この場合は未来は過去によって決まるというのではなく、未来は未来によって決まっていると言っているわけだが)。
量子のレベルで世界がどうなっているのかについては議論の余地があるが、我々が普段生活する範囲では世界は十分決定論的に振る舞う(いや実は初期値鋭敏性の問題があるから怪しいけど)。なにはともあれ、決定論的な価値観をもつことは決して悪いことじゃない。それを教えてくれるだけで十分だ。
草太は非決定論的な立場なの?
「気まぐれは神の本質だからな。」劇中で草太が言ったセリフだ。アインシュタインの有名な「神はサイコロを振らない」の逆で、草太はサイコロを振るのが神なのだと言っているわけだ。
決定論では因果を一段ずつ後退させていくと最終的に宇宙の始まりの瞬間まで遡ることになる。決定論において神が関与するのはこの最初の1度だけ。これはアリストテレスが言うところの第一原因、不動の動者というやつだ。よく聞く理神論もだいたい同じことを言っている。
一方、非決定論では神はいつでもサイコロを振り、ランダムな現象を起こすことができる。でもそんなことを許せば、自然の中から共通点を見つけて法則化する物理学という営みが根底から揺らぐ。だからアインシュタインは先のような発言をしたのだろうと思う。
改めて、草太が言った「気まぐれは神の本質」というセリフは神はサイコロを振るんだということを意味すると考えられる。つまり、彼は非決定論的な立場に寄っているということになる。決定論的なセリフを言ったすずめとは対照的である。
常世ってなんなの?
決定論をあえて都合のいいように極端に解釈すれば「過去だろうが、現在だろが、未来だろうが、それらは物事を観察するタイミングにすぎず、本質的には同じものである。」という主張が言えなくもない。
驚くことに、これは常世の「全ての時間が同時に存在する場所」という説明にちょっと似ている。
違いは、物事を一つずつしか観察できないのか、一度に全てを観察できるのかということだ。
現し世では現在は一つだけだけど、常世では現在は実際に過去でもあり、実際に未来でもある。現し世の決定論では情報として未来や過去を知ることができるが、常世では実在として未来や過去が同じ時間にある。ところで、情報っていったい何なの?という物理学の頭の痛い話が始まってしまいそうなのでこれはやめておこう。
続く
今回はなんか科学哲学的な話になっちゃった。意識してるのかは分からないけど、新海誠の映画は哲学の趣きがあって良い。本当は演出のこととか、登場人物のこととか、まだまだ色々書きたいんですけど、長すぎるのも良くないので今日はこの辺で。
それではまた次回!


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